みなさんこんにちは。臨床家のたまご、SAKANAです。
今日は「こころ」と「ことば」について少し考えてみたいと思います。
私が目指している「臨床心理士」という資格は、心の専門家です。
心は見えないし、触れることもできません。どこにあるのかもわかりません。
でも、確かに存在しているはずなのに、その存在は明らかではありません。
ある学派では体の外に心があると考え、
またある学派は心は脳にあると考えています。
様々な学派によって「心」のありかが議論され、その捉え方次第で、関わり方が変わってきます。
その中で、私がとても素敵だなと思ったものがあります。
一丸藤太郎先生の「関わるところに生まれるこころ」という言葉です。
「関わるところに生まれるこころ
一丸先生は精神分析の様々ある学派のなかでも、ハリー・スタック・サリヴァンらによって築き上げられた「対人関係精神分析」のご専門です(おそらくみなさんの方がお詳しいと思いますが苦笑)。
著書『対人関係精神分析を学ぶ』では、フロイディアンとの違いをテーマに、「心の捉え方から、クライエントとの関わり方、臨床実践のありようなど、それぞれの特徴と違いを考えながら自身の臨床を見つめ直す真摯な試み」をされています(著書の帯より)。精神分析について学びたい方にもオススメの一冊です。
この対人関係学派では、相談に来られた方を理解する際、その方が取り巻く環境や対人関係、様々な文脈の中で理解することを大切にされているそうです。
こころは、人と関わる数だけ生まれる、と考えるのですね。
例えば、お母さんの前での私、学校での私、仕事場での私、夫婦2人でいる時の私。
全部同じ「私」であるはずなのに、なんだか別人みたい……と感じることはありませんか?
それは、私を取り巻く環境や、人との関わりがそれぞれ全く異なっていて、それぞれの関わりの中で生まれるこころがあるからかもしれません。人との関わりによって、一つとして同じ「こころ」はない。
人によってこころのありようや態度が変わってしまうのは、ある意味自然なことなのだと思います。
余談ですが、この本を読んでとても興味深かったのは、「分析家を『ロールシャッハ・テストの図版のように、判然としない図柄を備えた存在』と考えたらどうか(p132)」とご提案されていることです。
初学者でも読みやすい、優しい言葉で書かれた一冊だと思います。
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ちなみに私は「わかった気がする」よりも「わかったつもり」の方が多い人間なのです。
「斟酌しすぎる」ことが永遠の課題です。
こころはどうやって伝わるのか
さて、話は逸れましたが、さきほど、「臨床心理士」は心の専門家、といいました。
ではどうやって「こころ」をみているのでしょうか?
これもまた学派によって異なるところがあるようです。
人の行動や仕草、表情を見る。
人が描いた作品を観る。
人が語る言葉を聴く。
人との関わりの中で生じる、その場の空気を感じる。
さらっと挙げただけでも、様々な方法があります。
心理学を学び始めた頃、一番初めの講義でこんなお話をお聴きしました。
聞く、訊く、聴く。
“きく”ことには様々な表現がありますが、
心理士の仕事は耳と目と心を使って「聴く」ことです。
つまり、「こころ」というものを理解しようとする時、耳で言葉を聞くだけではだめで、「なぜ?」と訊問するのもだめ。
言葉に耳を傾けつつ、表情や仕草、行動などに目を向け、それを心理士自身がどう感じたか。それがとても大切なのだそうです。
「嬉しい」と言いながら表情が暗かったり、「悲しい」話をしているはずなのに顔は笑っている。
そういう方とお会いすると、なんだか違和感がありますよね。そういう小さな違和感に疑問を持ち、心に留めておきながらお話を聴く。
ここでは、こころを「みる」という表現よりも、もしかすると「感じる」、「伝わってくる」という表現の方がしっくりくるかもしれません。
私は精神分析的な理解の仕方が好きなので、つい「この方の本当の気持ちはどこにあるんだろう」と考える癖があります。
「勘ぐる」といわれると何も言えなくなるのですが(苦笑)
「言葉を愛する学問」
最近拝読した北山修先生の著書の中に、こんなことが書かれてありました。
「言葉を愛する学問」という言い回し。なんて素敵な言葉なんでしょう。
北山先生は、言わずもがな、精神分析の中でもメラニー・クラインによる「対象関係学派」ご専門の精神分析医です。
この本では「こころ」というものについて、「表と裏」という表現を使ってご説明されています。
私たちが考えや気持ちを言葉にする時、そこには語られない「裏」が生じる。その「裏」にあるものこそが心であり、精神分析が考える心というものについて、「心とは裏の意味である(p13)」という定義を強調されています。「言葉が人生を物語にする(p18)」という言葉が意味するように、言葉を使って表現されることで、初めて心を相手に伝えることができる。言葉にすることで、自分という物語を紡ぎ、自分自身の人生、こころというものの世界に意味を見出していくことができる。
精神分析とは、「自分」という存在の裏と表を感じながら、語りながら、人生の意味を考える。そういった営みなのかもしれません。
こちらの本もぜひご一読いただきたい本です。
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「こころ」と「ことば」
人が何かを語る時、その言葉には必ず「裏」がある。
明るい人は、明るくない何かを心の中に抱えているかもしれないし、「なんで自分ばかりこんな目に」と悲痛な思いばかり語りたくなるとき、心の裏にはもっと別の、自分でも気づいていなかった恵まれていたはずの自分というものが存在しているかもしれない。
このことは、北山先生だけでなく、河合隼雄先生も著書の中で語られていました。
「こころ」を理解するためには、「ことば」にして相手と共有する必要がある。
しかし、その言葉だけでなく、言葉の背景にある語られない「裏」の部分、見えない人との関わり、その方が生きて来られた歴史、これから生まれるであろう人との関係など、目に見えないものに思いを馳せて、想像し、ともに感じる。
相談に来たのに、ずっと黙って座って時間だけが過ぎると、心理士の心の中には「何をしにここに来られたんだろう」、「今どんな気持ちでここに座っているんだろう」と疑問が浮かぶかもしれません。
心理士の方が焦って、たくさん質問を投げかけたり、何か言葉を引き出そうとして様々な話題を提供して一人で喋ることになってしまうかもしれません。
でも、冒頭でご紹介した一丸先生の「関わるところに生まれるこころ」という言葉をお借りするなら、表情や仕草、喋らないけれど座ってともに過ごす時間を感じながら、今、目の前の方との間に生まれている「こころ」というものに耳を澄ませて、味わうことも大切なのかもしれません。
心理士として、これから言葉を大切にしていきたい。
でも、言葉にならない「こころ」も共に感じられる存在でありたいとも思っています。
相談に来られた方と、ただ窓の外を眺めて、ぼーっと1時間を過ごす。
そんな時間があってもいいのかもしれないなぁ、なんて想像したりしながら。
臨床家のたまごが今日も何やら呟いているようです。
SAKANA
引用文献
本日ご紹介した文献はこちら。
一丸藤太郎(2020).対人関係精神分析を学ぶー関わるところに生まれるこころ 創元社
対人関係精神分析を学ぶ 関わるところに生まれるこころ [ 一丸 藤太郎 ]北山修(2010). 最後の授業ー心をみる人たちへー テレビのための精神分析入門 みすず書房
最後の授業 心をみる人たちへ [ 北山修 ]
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